真夜中の門限のために
最後までBFとクラブで踊っていられなかった高校生のころ、
わたしはどれだけ母を憎み、
自由を切望し、
西麻布の交差点でBFと涙の別れを経験したことだろう。。。
いや、
His Holiness ダライ・ラマも偉大だ、
ネルソン・マンデラ師もガンジー和尚もすごい!
でも、
アウンサンスーチー女史は、
こんなにかわいいのに(REVOKOとしては重要です)、
自分の恋も人生も家族も投げ打って
REVOKOとして生きている!!!
そして今,
たった今も、
彼女はREVOKOとして
戦っています。
「REVOKOとしてだれよりもすごいかもしれない」
そう思うのは、わたしだけ?
女史は言いました。
「わたしの自由をあなたの自由のために使って下さい」
ねえ、何ができるか、
REVOKOたちで考えてみようよ。
まずは彼女の恋のおはなし。
ありえなーい。。。
REVOKOの中のREVOKO!
アウンサンスーチー女史と
マイケル・アリス氏との
恋
「アリス博士はご自身の夫人と家族へ、そしてビルマの民主制と人権へ対する忍耐力と献身によって、世界中の人々から尊敬と敬服の意をあつめた」 第42期アメリカ大統領 ビル・クリントン
ノーベル文学者アウンサンスーチー女史。「ビルマ建国の父」アウンサン将軍の一人娘として生まれた彼女は、生まれながらの政治家、REVOKOといえるでしょう。1947年、ビルマの独立運動を主導し、その達成を目前にして将軍が暗殺された時、スーチー女史はまだ2歳でした。それから間もなく、やはり卓越した政治家であった母親のキンチーがインド大使に着任すると、少女スーチーも母親と共にインドへ移り住み、デリー大学レディ・スリラム・カレッジで政治学を専攻しました。
そのあと彼女はイギリスに渡り、’64年からイギリスのオックスフォード大学セント・ヒューズ・カレッジで哲学、政治学、経済学を学び、そこで後輩だったマイケル・アリス氏と恋に落ちるのです。当時学生だったマイケルは、西洋人としてブータン、チベット、ヒマラヤの文化のオーソリティとして秀で、オックスフォード大学でアジア史を教えていました。キューバのハヴァナ生まれ。父親はブリティッシュ・カウンシルの役人。ダーナム大学を卒業すると彼は、ブータン国の王室にて王子たちの専属家庭教師として6年間務めます。マイケルとスーチーは1972年のお正月に結婚し、1年間をブータンで過ごしました。
その後イギリスに戻ったふたり、マイケルはロンドン大学にて大学院生となり、チベット学で博士号を取得。スーチーは1988年、脳卒中で危篤状態にあった母親を看病するためにビルマに戻ります。その時でした。彼女の中の、まだ芽の出ていない政治家としての先天的な直感が芽吹き出し、知らずのうちにビルマ政治活動に従事することになっていくのです。’62年の軍事クーデター以来、独裁政治を敷いていたネ・ウィン将軍・ビルマ社会主義計画党議長が辞任し、戒厳令下では学生、市民らが大規模なデモを行っていました。マハトマ・ガンジーの非暴力という哲学に圧倒的なまでに影響を受けていたスーチーは、シュエダゴン・パゴダ前集会で50万人に向け演説を行い、国民民主連盟(National League for Democracy)の結党に非暴力という意思で参加することになります。クーデターを起こした国軍は軍事政権を誕生させ、民主化運動は徹底的に弾圧され、数千人の犠牲者が出ました。全国遊説を行ったスーチーでしたが、1989年7月にとうとう自宅軟禁されてしまいます。その時彼女は、国外退去を条件に自由を認めるともちかけられましたが拒否しました。ビルマのために立ち上がったREVO魂に恋も人生も命をも賭けた驚異のREVOKOの誕生でした。
マイケルは当時の別れのエピソードをこのように話しています。「静かなオックスフォードの夜でした。いつもとなにも変わらない、1988年3月の終わりの静かな夜でした。息子はもうベッドで寝ていて、たしか電話が鳴ったとき、僕たちは読書をしていたと思います。スーが電話をとり、母親が脳卒中で危篤だと知らせをうけました。いったん電話を切り、彼女は荷作りをはじめました。僕は「永遠にこの生活が終わってしまったんだ」そんな虫の知らせがしました。息子たちを育てながら、妻と遠く離れた生活を強いられる年月の中で、彼はそのままオックスフォードにて教鞭、研究を続け、西洋諸国に対してビルマの民主化を呼びかける陳情活動に精を出しました。彼が教壇に立っていたセント・ジョンズ・カレッジはマイケルとスーチーに協力的で、彼の陳情活動の合間の特別給与の措置をとるなどして民主化運動を支えました。
1997年、マイケルは末期の前立腺がんと告知されます。彼の最後の望みは自分が死ぬ前に一目、妻に会う事。しかしながらビルマ政府は、ビルマ国内には彼のケアができる施設がないという理由で彼のビザを許可しませんでした。この離ればなれのカップルのために、諸外国はローマ法王ヨハネ・パウロ2世、アナン国連事務総長らと共にビルマ当局へ対し人道主義上、マイケルにビルマにいる妻を訪問するビザの要求をかなえてやる様に求めましたが、ビルマ当局はそれらの嘆願をも心に留めませんでした。
マイケル・アリス氏は1999年、命ある間最期一目でも妻に会いたい、という願いもかなわぬままこの世を去りました。彼が切に愛しぬき、そのために戦い続けた愛おしい女性、その人にみとられずに命をひきとったのです。最後に彼と彼女が会えたのは1995年のクリスマスだったそうです。
「わたしを常に理解し、望むまま与えてくれ続けた、こんな素晴らしい夫に恵まれた私は幸せです。だれも、なにも、私からこの事実を奪う事はできません」
1999年3月27日
アウンサンスーチー
(できることのひとつのチョイス)