「私、朝のコーヒーにあぶれることはないの。ちょうど昔のpoetry beggar達がやったように、私は一杯のコーヒーの為に即興でうたを唄えるのよ」と言ったpattiの言葉がとても印象的だった。35年のキャリアを積んだ“godmother of punk”の何気ない無邪気な一言だった。poetry beggar、耳慣れない言葉ではあったが、なぜか1930年代頃に道ばたで唄っている小さなエディット・ピアフを想像した。現実を生き、生き抜こうとするそのうたには祈りがある。生きる為に唄う。poetry beggarとはきっとそういうことを言うのだろう。
なんでもお金に換算してしまう現在の世の中のしくみ。味気ない。。。を通り越して怖くなる時がある。電子マネーなんてものも出てきて、なにがなんだか分からなくなってしまう。貨幣経済飛び越えてデーター経済の中で生きているの私達?それってどういうこと?「便利」の一言だけでいろんなものを忘れちゃうなら、私不便でもいい!本当にそう思うのだ。(なので私の日常生活はけっこう不便にできている)しかもそれって本当に便利なの?
とにかく私は何事にも実感していたい性分なようで、お金を稼ぐ実感、お金を払う実感、、、実感できなけりゃどうにも動けないのだ。。。実際に感じる感情とは心の底から出てくるものなのだから、お金すら姿を消して全てデーター化されてしまったら私はもっともっと困るだろう。データーマネーからちゃんと心を感じ取れるだろうか?データーマネーの先に心はあるのかしらん?
なんだか相変わらずとりとめのない文章で申し訳ないが、今日の最後にこぼれ話を一つ。
生涯ずっと真面目に商売を営んでいた私のおじいちゃんは、その日の売り上げのお札すべてにアイロンをかけていた。「お金にも種類がある」という。「いろんな思いを持ったお金がある。それをすべてきれいに伸ばしてまたここからお金を出していく。それがお金を回すということだ」身内ながらおじいちゃんはいい事を言ったと思う。そのお金には祈りがある。生きる為のお金。決してお金の為に生きているのではない。
その素晴らしいおじいちゃんの孫だけあって、CHICO UPPはお金が’感謝券’であることを忘れないようにしている。同感のはんたいは感動。
返信削除うちのママは’感謝券’で感謝を示すとき、どんな人にもむき出しは無礼、と言い、そのため、いつもその季節にあったぽち袋を懐に忍ばせていました。そのせいか、私はアメリカ小切手社会で暮らしていても、直接相手に渡す場合は、必ずなにかきれいな紙に包む癖がついています。外人はみなそれだけで2倍喜んでくれます。忘れちゃ行けない「彼女にチップ渡して」ではなく「彼女に包んで」という粋な台詞。きれいなお金は見た目もきれい。ね、おじいちゃん。
birdfish より